橋本環奈『舞台 千と千尋の神隠し』上演迫る中、たった一つの疑問点が。それは「ジブリ嫌いにジブリ舞台が観られるのか?」。ジブリアニメの一体どこが嫌いなのか。ジブリ好きとは何が違うのか。ジブリ嫌いの頭の中は一体どうなっている?。
※上記の画像はスタジオジブリが権利を保有する画像を「常識の範囲内」で使用しています
- ジブリ舞台を心待ちにしているジブリ嫌いって変?
- ジブリ嫌いが語るジブリ6作品の嫌いな点
- 世のジブリ嫌いの声を聞いてみたら…
- ジブリ人気の理由を聞いたら見覚えのある光景が浮かんだ
- それでも行く意味とは?
ジブリ舞台を心待ちにしているジブリ嫌いって変?
橋本環奈『舞台 千と千尋の神隠し』の上演がいよいよ近づいてきた。
環奈の演技が生で見られるめったにない機会とあっては否応なしに盛り上がる我々界隈。名古屋公演の一般発売日も約一ヶ月後に迫ってきたぞ。
…だけどちょっと待て。ジブリ嫌いだったじゃないか。いくら生環奈の貴重な機会とはいえジブリ嫌いがジブリ舞台を本気で観ることができるのか?。
ということでまずはなぜジブリ作品が嫌いなのかをちょっと整理してみることにしたい。
「なんでジブリ嫌いなの?」という声が聞こえてきそうだ。
どうも日本では少数派らしいジブリ嫌いという希少種の頭の中を公開する。
(今回はいつもと違って完全な好き嫌いで書いており、作品を評価するレビューではないのでご了承いただきたい。)
ジブリ嫌いが語るジブリ6作品の嫌いな点
ジブリ嫌いと言っているけど、正確には「スタジオジブリのアニメ作品とりわけ宮崎駿監督作品嫌い」だ。
でも宮崎監督作品は2作弱しか観てない。それではほとんど観ず嫌いじゃないか…ってすまん、「PR番組観ただけ嫌い」もある。さわりをじっくり拝見して正しく嫌いになったんだからレビューじゃないしまあ良しとしてくれ。
それでは作品別にコメントするぞ(ほほーい)。
火垂るの墓
(1988年、高畑勲脚本・監督)
嫌い度:測定不能
「サクマ(式)ドロップス」が妙に印象に残っちゃって後で買いに行ったなあ。骨壷代わりなのにね。それくらいの記憶しかない。まんまとプロダクトプレイスメントの餌食となる小学生。ちなみに小学校の教室で半強制的に視聴させられていた。
魔女の宅急便
(1989年、宮崎駿脚本・監督)
嫌い度:中
「あー、コナンくんが魔女やってる」としか思えず終始物語に没入できなかった。先に『名探偵コナン』(1996年開始)を観ていたため(どちらも主役の声は高山みなみ)。だから日テレで視聴したのは1997年か1999年だと思う。起伏のない展開だなあと退屈し、終盤手前で離脱した。
海がきこえる
(1993年、日テレ系、氷室冴子原作、中村香脚本、望月智充監督)
嫌い度:小
だからなんだ、なにがいいたいんだ?みたいな展開が退屈。絵の綺麗さや動作の滑らかさはあるけど…絵だけに血が通ってない感じがして。実写版は当然そこがクリアされている。珍しく離脱しなかったのは原作ありでジブリらしくない作風だからか。
平成狸合戦ぽんぽこ
(1994年、高畑勲脚本・監督)
嫌い度:大
魅力のないキャラたちに感情移入できず序盤離脱。一般俳優による声の演技とアニメの絵が噛み合わない感じが心地悪かった。特に石田ゆり子。乱開発に警鐘というテーマ(?)は立派だけど、エンタメとしては地味すぎる。
ホーホケキョ となりの山田くん
(1999年、高畑勲脚本・監督)
嫌い度:多分大
原作(現・ののちゃん)の毒っ気のある味が削ぎ落とされきれいごと家族愛ドラマに改変されているなあと一場面を観て思った。視聴時の詳しいことは忘れた。原作は好きなんだけど。
千と千尋の神隠し
(2001年、宮崎駿原作・脚本・監督)
嫌い度:大
まずもって主役の女の子が魅力的でない。特有のぬぼっとしたあまり凹凸のない顔デザインが嫌い。きもい魔物のいる世界に入り込むっていう展開に観る気が失せた。PR番組が本編は観なくていいよと思わせたのがなんとも皮肉。
嫌いな点をまとめると
- 声と絵が噛み合っていなくて心地悪い(魔女、狸)
- 絵が好きではない(狸、千)
- 単調なストーリー展開と感じて退屈する(魔女、海)
- 世界観が嫌い(山田、千)
ということになるかな。
絵でいうと「宮崎監督が描く女の子のあの感じ」が特に苦手なんだよね。なんだか絵から臭うものがあるんだ。
実際の10歳くらいの子にあるリアルな部分を都合よく取捨選択しつつも作為的に残していて、写実でも妄想でもない「作者の独断と偏見によって選んだ女児のリアル」みたいなところから微妙に漂う女児嗜好な感じがどうも嫌なのね。
(重ね重ね強調しておくけど今回はあくまで好き嫌いの話。だからいわゆる「ツイフェミ」みたいなやつらの萌えキャラ叩きと一緒にすんなよ。)
脚本、演出面でも状況や表情からキャラたちの心情を読み取ってね。みたいなのが苦手なのかも。
あの平べったいアニメ絵から内面を深く読み取るのは無理だよ。微妙な表情を伝えたければ実写でやれよ。といった感じで。
世のジブリ嫌いの声を聞いてみたら…
世のジブリ嫌いたちの嫌いな点も見てみると何かがわかるかも。単なる好奇心だけど。
影のほとんどない淡白な絵です。数あるロボットアニメや宇宙戦艦ヤマトにどっぷりしていた身にとってはなんともぬり絵みたいで好きになれません。
絵を描く人ならではの具体的な表現にはっと気づく。キャラ絵につかみどころがない。だから感情移入できない。
皆何かに気付きそこへ近づこうとするときに同じ動作をするのです。腕をVに軽く折り小指を少し立たせ時折戸惑うような表情を差し込んで近寄っていきます。
キャラクターが違えばしぐさが同じになるはずはないのですが顔は違っても動作が同じなのでものすごく気を削がれてしまうのです。
なるほど。嫌い故に細部を観察していないから気づかなかったけど、感じる違和感には必ず正体があるわけだね。
まず彼の絵がだめだ。もちろん私はいわゆるアニメ絵はもっと嫌いで、それに較べれば彼の絵は「リアル」なぶんましなのだが、なんかあの「へのへのもへじ」みたいな顔が貧相すぎてダメ。淡白すぎるんですわ。(Flourella blog)
同じ部分が嫌いという表明でも人によってこんなに選ぶ言葉が違ってくるのが面白い。
ジブリに出てくる主人公って心がきれいすぎるんだよね。心が少年のまんま。むしろ少年よりも心が綺麗だと思う。正義感だとか、嘘をつけないだとか、人を助けてしますだとか。…模範的な人間だからね。…俺が見たいのはダメ人間でも心がドブのように腐っていても、不器用でも、歯を食いしばって毎日を懸命に生きてるっていうか…、そんな物語が見たいわけ。
ああ、そうか。主人公に影とか負の部分がないからドラマが盛り上がらない=単調に感じるわけだな。キャラ、ストーリー作りの基本がなってないという示唆は結構的を得ていると思う。数多の子ども向け作品でも「腐った人間」「ダメ人間」って普通に出てくるもんね。
強制的にみなければいけない的な、日本の風潮。嫌いです。(きつねこブログ)
そういう経験はないけど、好きな人が多いのは実感している。キャラの名前言われてもそれがジブリの作品だってわかんない時がある。
実は10代 - 20代の時に同居していた犬の名前がジブリ作品のキャラだった。生まれた家のみなさんが付けた名前だからもらわれてきたときすでに名前が付いていて、だいぶ後になって知ったっていう。
ジブリ人気の理由を聞いたら見覚えのある光景が浮かんだ
それではなぜジブリ作品(というか宮崎駿作品)が広く大衆の人気を得るのか。この点を興味深い考察している人がいて紹介したいんだけど、残念ながらブログを閉鎖してしまっているので記憶を引っ張り出してみる。
普遍性があって個々それぞれ解釈できる余地がある。(要約)
というもの。宮崎作品のほか、村上春樹とか著名なロシア文学がそうだという。
これを聞いて物語を「個々それぞれ解釈する」場面はどこかで見覚えあるなと思った。
わかった「小学校の国語の授業」だ。
日本のありふれた公立小学校の「国語」の時間。教科書に載っている物語を読んで「ここでおじいさんはどのように思いましたか?」みたいな質問を先生がしてくるからそれに答える。
これがすごく盛り上がる。
個々それぞれ好き勝手に解釈して発表できるからみんなは楽しいんだな。
そうかあの感じなのかもしれない。
だけど筆者はこれが苦手だった。
「ここでおじいさんはどのように思いましたか?」
「知るかよ!」
刺激のない作品の魅力のないキャラの気持ちなんてどうでもよかったんだと思う。
それでも行く意味とは?
好き嫌いなんて本当自由でいい。
良いといわれている作品でも嫌いな場合があるし、ダメな作品がくせになることもある。何気に観ていたら面白いってこともある。
このサイトは、環奈の観客として好き嫌いのハードル乗り越えて観てレビューを書いているわけなんだけど、それはちょっと無理して何かを得てアウトプットするという一つの趣味なんだよね。
だから選択肢は「行く」しかない。チケットがんばって取るぞ。
日頃のレビュー目的の鑑賞では、そこで意外と面白い作品に出会えることもあるし、うわひでえなんてこともある。
だからまずは入り込んで観ないと本当のところはわからない。
『舞台 千と千尋の神隠し』。俳優環奈が本気で舞台に取り組むとどういう世界を魅せてくれるのか。本気で楽しみなのよ。
正直舞台映えするかすらわからないけど、極限状態を表現してしまえるあの独特な演技のスキルを生で見てみたいという気持ちがものすごくある。